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自分と向き合うためのブログ

アメリカ文明に驚かなかった福沢諭吉

勝海舟福沢諭吉がアメリカ西海岸に辿り着いたのは、1860年のこと。

エジソンが電球を発明するより19年も前のことで、まだ電灯の時代はきていません。しかし、電信はありました。

福沢らは、アメリカ人たちにあちこちひっぱりまわされて、文明の設備を見学させられました。電信機の見学も、そのひとつでした。アメリカ人からしたら、極東の日本人に見せることで、「どうだ、これが文明だ」という気持ちがあったのかもしれません。

が、福沢は、笑っていたことでしょう。

「こっちはチャンと知っている。これはテレグラフだ」

という言葉が、自伝に残っています。

メッキ工場の見学でも、砂糖工場の見学でも、同様のことが起きました。電気メッキ法や真空を利用した沸騰法、アメリカ文明を動かしている物理・化学的な機械や諸現象を実際に見たのは初めてであっても、その原理や概念はとっくに知っていました。

すべて、オランダの書物のおかげでした。

 

出島に射し込んだ外光

江戸期の日本は鎖国状態にありました。そのため幕府はオランダ人を隔離すべく、長崎の海に出島という埋立地をつくり、そこに出島橋を架けることによって、長崎と接続させていました。橋のたもとには、

「断なくしてオランダ人、出島より外に出侯事(いでそうろうこと)」

という禁制が書かれ、オランダ人が出島から出ることを禁じていました。つまりはオランダ人を思想的保菌者のようにあつかい、日本人にその影響を与えないようにしていたのです。

その背景にあったのは、戦国時代のポルトガル人やスペイン人の影響です。彼らはキリスト教カトリック)を広めていましたが、やがて布教の裏に両国の領土的野心が見えかくれしていることがわかり、禁教になり、それが昂じて江戸日本は鎖国をしました。

ところが遅れてやってきたオランダ人は、カトリック(旧教)に抵抗したプロテスタント(新教)の人々であることが幕府にわかり、制限下での交易を許しました。ただし、新教といえどもキリスト教だから、オランダ人に行動の自由を許せばその教えの種子が日本社会に散らばることを怖れ、幕府は彼らを出島に閉じ込めたのです。

出島の商館のオランダ人は、わずかな人数でした。商館長、医官、大工、鍛冶、バター造りの職人など、合わせて常時十数人に過ぎなかったといいます。しかしこの閉じ込められた十数人が、江戸期の日本文化に重大な影響を与えました。

出島のオランダ人に会えるのは、原則として特定の役人だけだったので、日本人にとってオランダの学問にふれられるのは、書物を通じてのみでした。書物を読むのには、オランダ語を学ぶ必要がありますが、江戸期のある時期までは、オランダ語を教える塾もありません。それでもなおオランダ語を学ぼうとした者たちが、出島に出入りしていた幕府の通訳官から、密かに学び始めました。

 

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杉田玄白がもたらしたもの

決定的なことを起こしたのは、医者の杉田玄白でした。彼は漢方に飽き足らず、さまざま模索するうちに、一冊のオランダ語の解剖書を手に入れました。解剖図を中心とした簡単な医学書らしかったのですが、彼がこの本で最も感動したのは、その精密な写実画でした。

補足すると、宗教画以外の絵画が純粋芸術とみなされるのは近代に入ってからで、それ以前は、建築、機械学、医学の解説を助ける一技術に過ぎませんでした。解剖学の歴史は、絵画に助けられて発達しました。とくにミケランジェロの精密な解剖図の出現によって飛躍したといわれています。

ともかく杉田玄白はオランダ解剖学の本の迫真的な図版に感動したのですが、ひとつにはオランダ語がわからないために、絵を見るしか仕方なかったということもあります。

1771年、江戸の刑場で、刑死人の解剖が行われると聞いた杉田玄白は、小躍りで向かい、現実の人体とオランダの解剖書を見比べました。そのうち、本が実際と寸分違わないことを知りました。この瞬間、日本思想史が微妙にヨーロッパ史に傾いたといいます。福沢諭吉が日本幕府最初の訪米使節としてアメリカへ行く、89年前の出来事です。

玄白はオランダ解剖書の翻訳をしようと思いたち、同士数人と作業を始めました。同士のひとりがかすかにオランダ語を知っているということだけが頼りで、辞書もなく、またオランダ通訳官の助けもなく、まったくの手さぐりでした。たとえば「眉」という一語を知るのに、一日以上かかったこともありました。玄白はこの厳しい翻訳の状況を「櫂や舵のない船で大海に乗り出したよう」と表しました。

訳業は1年10カ月かかり、『解体新書』という題で刊行されました。日本のオランダ学は、このときから始まります。しかし、解体新書は印刷本ではなく、筆写本でした。幕末、ほとんど世から忘れられていましたが、福沢諭吉がこの内容に感動し、1869年という維新の騒然たる時期に、自費で刊行しました。福沢は、この本が、日本人の営みを知るうえでの宝であるとしました。

その営みの末裔として、アメリカでの福沢青年がいます。彼がアメリカの機械文明に腰を抜かさずに済んだのは、杉田玄白以来の無数の先人たちの労のたまものでした。その源が、オランダにあったということ。

ぼくがオランダに興味を持った、きっかけの話でした。こういう話を知ると、歴史って面白いなと感じます。そして見習いたい精神があります。